下北沢で約60年続く老舗、金子ボクシングジム。元東洋フェザー級チャンピオン・金子繁治氏が設立したジムで、現在は長男の健太郎氏が会長を務めている。過去には世界チャンピオンを輩出した名門ジムであるが、健太郎氏が持つのは「ボクシングジム会長」の顔にとどまらない。下北沢・あずま通り商店街の会長でもあり、現在は下北沢の街づくりにも深く関わっている。下北沢で生まれ育ち、現在も下北沢に根付いている健太郎氏。彼は、どのような想いでこの街を見つめているのだろうか。インタビュー前編では、ジムの歴史や自身のルーツについて話を聞いた。
ジムから見つめる下北沢の変化
—金子ボクシングジムは、どのような背景で設立されたジムなのでしょうか?
金子:金子ボクシングジムは、1965年4月に下北沢の地で産声を上げました。私の父・繁治がボクシング東洋チャンピオンで、日本人で初めてフェザー級クラスで国際タイトルを獲った人だったんです。でも網膜剥離になり、これ以上ボクシングをすると失明してしまう状態になってしまって。「いよいよ次は世界戦だ」というタイミングで、引退せざるを得なかったんです。その3年後、「自分が成しえなかった世界チャンピオンをどうしても育てたい」とう想いで独立し、この地にジムをオープンしました。ジム開設当初は、まだまだよそ者みたいな見方をされていたようですよ。でも長年やっていると認知されてきますし、2011年にはついに世界チャンピオンが誕生しました。父が生きているあいだに世界チャンピオンが誕生して、父をそのリングに上げることができた。それは、本当にありがたいことだなと思っています。
—お父様が、ジムを設立する場所に下北沢を選んだのはなぜですか?
金子:父が現役時代、所属していたのは目黒の笹崎ジムだったんですが、下宿していたのが下北沢だったんです。ジム設立のため土地を探していたとき、今の場所を見つけて。住宅街だけど小田急線が横を走っていて、「ちょうど宣伝になるだろう」ということでここを買ったみたいですね。下北“沢”の名の通り、当時はここにどぶ川が流れていて、台風が来るたびに川が氾濫していました。川に動物の死骸やら鯉が流れてくるのを、橋の上から覗いていたことを覚えていますよ。最近はかなり整備されて、きれいになりましたね。
—金子ボクシングジムの目の前に、個店街「reload」が2021年にオープンしましたよね。ジムにはどんな影響がありましたか?
金子:工事をしている5年くらいは殺伐としていたし、コロナの影響も相まって練習生の数がガクンと落ちてしまいました。大変な時代でしたけど、reloadがオープンしてからは良い影響がありましたよ。まず人通りが増えたので、体験入門に来る人も増えました。夜はうちのジムだけライトが付いているから、水族館の水槽をのぞくように選手たちのトレーニングを見てくれている人もいます(笑)。reloadがオープンしたおかげで大勢の方に気付いてもらえるようになったので、すごくありがたいですね。
最近は、下は5歳の幼稚園生、上は81歳のおばあちゃんが入会してくれました。そのおばあちゃんは「90歳でキックボクシングを始めた」という人の新聞記事を読んで「私にもできるかしら」と一歩を踏み出してくれたようです。最初は「1週間に1回」と言ってましたけど、今は毎日来てますよ!選手は3分動いて1分休むんですが、おばあちゃんは1分動いて3分休む。選手とは逆のペースでトレーニングして、30分くらいで帰っていきます。縄跳びも飛ぶしパンチングボールも打つし、すごいおばあちゃんですよ。
偉大な父や選手に囲まれた少年時代
—お父様が偉大だからこそ、「自分はボクシングをやらない」という選択肢もあったと思います。金子さんがボクシングに携わるようになったのはなぜですか?
金子:チームワークを重要視する競技ではなく、自分で勝ちをもぎとる個人競技をやってみようと思ったからです。家がボクシングジムということで、小さいころはいろいろと犠牲になるわけですよ。たとえば、見たいアニメがあってもボクシングの生中継がやっていたらそっちばかり見せられる。それから、僕らが普通のソーセージを食べているのに、合宿生はスタミナをつけるためにステーキを食べてるとかね。「羨ましいな」と思って見てましたよ。ボクシングをやっているお兄さんたちの中で育ったので、逆に自分は「ボクシングはやらない」と野球をしていたんです。
でもそのうち、野球の体力づくりの一環で一緒にロードワークをするようになったんです。僕はしっかり野球に取り組んでいたので、チャンピオンクラスの人たちとも平気で一緒に走れる。すると「チャンピオンもこんなもんか」と思うわけです(笑)。さらに、野球がオフシーズンのときにサンドバッグを打ったりしていると、みんなが褒めてくれるんですよ。「さすが会長の息子だ、上手いな」と。で、「ちょっと兄ちゃんとやってみるか」とチャンピオンが相手をしてくれる。褒められたらそりゃ嬉しいし「自分もボクシングできるんじゃないか?」と思うようになって。
そんなとき、父と一緒に輪島功一さんの試合をリングサイドで見たんです。韓国の柳済斗選手にタイトルを獲られてしまい、そのカムバックとなる試合でした。15ラウンドのラスト、ノックアウトで輪島さんが勝つ試合を目の当たりにして「こりゃすごいな」と。それで、“自分が戦って自分で勝ちをもぎとる”個人競技のボクシングに取り組むようになりました。野球は自分がエラーをしてもまわりが上手ければ勝てるし、逆にまわりが下手くそでもピッチャーひとりが上手くて三振とっちゃえば勝てますからね。ボクシングを本格的に始めたのは、高校2年生のときです。
—そのときには、プロを目指そうと思っていたんですか?
金子:ボクシングに真剣に取り組み始めた当初は、「将来はプロになり、その経験を活かして指導者になりたい」と思ってましたよ。大学でもボクシングをやろうと思い、スポーツの名門である東海大学に入りました。ただ、どの学科に行くか迷っていて。「今後もボクシングを続けるのであれば体育学科かな」と迷っていた時期に、ちょうど作家の沢木耕太郎さんが取材のためにジムに来ていたんです。で、沢木さんが「将来ジムを継ぐなら、経営学科に行った方が良い」と言ってくれたんですよ。「ボクシングをやっていれば体育学は学べるから」、と。そのひとことで経営学科に入り、簿記や会計、マネジメントについて学びました。今になって、大学で経営や経済を学んで本当に良かったと思っていますよ。
ただ、目を悪くしてしまってプロを目指すことができなくなったんです。「プロになれないならそれ以上に優秀なトレーナーになろう」と思い、審判員の免許を取ったり、海外に行ったり、優秀なトレーナーのいるジムに行ったり……と、だいぶ勉強しましたね。
街に目を向けたら、ジムを応援してくれる人が増えた
—金子さんが、あずま通り商店街の会長をするようになった経緯を教えてください。
金子:うちから世界チャンピオンが生まれたのと同じ時期、2011年に副会長を仰せつかりました。当時、会長が体調を悪くされていたんですよ。副会長は3~4人いて、私はいざとなったら会長の代理をする筆頭副会長のような立場でした。任期半ばで会長が亡くなってしまい、筆頭副会長だった私がそのまま会長になった、という経緯です。
それまでの僕は、自分で選手を育成していたことに加え保護司(犯罪や非行をした人の立ち直りを地域で支える民間のボランティア)をしていたこともあって、「青少年育成」に目を向けていました。ただ、商店街会長になった分岐点で目線が変わりましたよ。それまでは再開発にはあまり関心がなかったのに、駅や駅前、そして各商店街がきれいで安心安全な街になることが、価値なんだと思うようになるんです。不思議と街づくりに目を向けた途端、街の人たちも金子ジムに目を向けてくれるようになった気がしますね。「良い選手が育ってるね」とか「良い試合だったね」なんて声をかけてくれる人が増えてきて。で、「金子が一生懸命街づくりをしてるなら、協賛しよう」とジムを応援してくれる人も増えてきました。
—会長になってから、街づくりに目線が向くようになったんですね。ちなみに保護司のボランティアでは、どういうことをしていたのでしょうか?
金子:刑務所に入った方々が、出所後に差別を受けずちゃんと生活ができるようサポートをしていました。もともと金子ジムには、保護司をしているお寺の住職や神社の神主、学校の先生などが「自分が担当している少年の面倒を見てください」と来ていたんですよ。彼らを受け入れてたこともあって、保護司のことは薄々知ってました。まさか自分がやるとは思ってませんでしたけどね。いざ保護司をやってみたら、やんちゃしていた子たちがボクシングを始めると喧嘩をしなくなるんですよ。本当に強くなると、喧嘩が馬鹿らしくなってくるんですね。20年も保護司をやっていたので、法務大臣から表彰されました。そうすると“地位が身を育てる”じゃないですけど、「ますます襟を整えてしっかり世の中のために指導しなきゃいけない」と思うようになりましたね。
気付いたら「入会させてください」と言われる商店街になっていた
—金子さんが商店街会長になった当初、どんな商店街にしたいと思っていましたか?
金子:店舗さんのほうから「商店街に入れてください」と言ってくれる場所にしたいと思ってました。新しいお店ができると「商店街に入会してくださいね」と、こちらからあいさつに行くわけですよ。でも「うちはそんな余裕ないから」とか「商店街に入ってもうちには関係ないから」と断られてしまうのが普通。そんな現状にぶち当たったとき、メラメラと「この人たちが入りたいと思う商店街にするためにはどうしたら良いのかな」と思ったんです。入会申込書をこちらが持っていくのではなく、店側が取りに来てくれる商店街にしたい。そのためにはどうしたら良いのか、会員・非会員関係なく商店街の若い経営者を集めて意見を聞いたんです。そこで若い子にアドバイスされたことを実行したら、気付いたら「商店街に入れてください」と来てくれるようになっていました。そんな商店街、なかなかないみたいですよ。
「気付いたら達成できている」という考え方は、実はボクシングの育成も同じなんです。「勝て!ジャブ出せ!」って言っても、勝てません。気付いたらジャブが出て勝っている状態をつくるのが大事なんです。どうしたら「入りたい」と思う商店街になるのか、どうしたら「勝てる」選手になるのか……こういうことを考えるの、得意なんです(笑)。会長になった当初は30~40店舗しか加盟してませんでしたが、この10年で80店舗くらいまで増えました。商店街には130くらい飲食店があるので、まずは100店舗が会員になることを目指したいです。とはいえ誰でも良いというわけでもなく、イベントや街の盛り上げに協力してくれる方々に会員になってもらえると嬉しいですね。
—ボクシングジム会長・あずま通り商店街会長など、金子さんにはいろんな顔があります。それぞれの取り組みをするにあたり、共通する考え方はありますか?
金子:「ナンバーワンじゃなくて良い、オンリーワンでいたい」という共通した想いがあります。金子ジムは、「世界で通用する超一流の選手を育てることも大事だけど、かならずしもナンバーワンにならなくても良い。2流・3流でも良い」という考え方なんです。だけど、なにかでオンリーワンでいたいと考えたとき、たとえば「金子ジムならでは」の会長がいたらオンリーワンになれますよね。日本全国見ても、「保護司で賞をもらい、商店街の会長をし、世界チャンピオンを育てたボクシングジム会長」は僕しかいないんじゃないか?と思うんです。ジムは、こういうところに価値観を置いて頑張っています。
下北沢の街づくりも同じで、「ナンバーワンではなくオンリーワンの街」にしたいと思ってます。駅前ひとつとっても、ほかの駅とは全然違う景観にして……たとえば、駅前全面を芝生にして、家族がビニールシート広げてお弁当食べているような光景が広がっていたらオンリーワンですよね?実現できるかは別として、そんな妄想をしていますよ。選手の育成と同じで、街づくりも「これ以上は無理だ」と思ってしまったらそこまでしか実現できません。骨折して目が腫れあがっていても、潜在能力を発揮して試合に勝っちゃう選手をたくさん見てきました。街づくりも同じで、「こんなこと無理だよ」ということに挑み続けることが大切なのかなと思います。