お笑いコンビ、エレキコミックの一人であり、全国のクラブやフェスを駆け巡るDJ、音楽とお笑いを共存させた『やついフェス』をはじめとするイベンターなど、多岐にわたる活動で知られるやついいちろうさん。実は下北沢との縁も深く、その歴史はエレキコミックを結成した1997年以前にまで遡る。さらにこれまで、2022年に行われたミカン下北開業イベント「未完祭」や下北沢で働くを可視化する実験イベント『I am working in Shimokitazawa』にMCやライブで出演され、「東京都実験区下北沢」でもその模様を届けてきた。今回は、30年近い下北沢の変遷を肌で感じてきたやついさんに、街への想いについて訊いてみた。
芸人・ミュージシャン仲間との青春の場所
—お笑い芸人、DJ、イベントのオーガナイザーといった、さまざまな顔を持つやついさんですが、もともとカルチャーに興味を持つようになったルーツを教えていただけますか?
詳細までははっきり覚えていないですが、『宝島』というカルチャー誌の存在は大きかったですね。80年代の後半から90年代の前半、お笑いだとダウンタウンが東京に進出してきた前後で、演劇の人やミュージシャンとも絡んでいたシティボーイズや、音楽とも結びつきのある劇団健康の特集なども組まれていました。音楽は洋楽をよく聴いていて、なかでもThe Stone RosesやPrimal Scream、Blurなど、UKのロックが好きで。その流れで、サニーデイ・サービスの1stアルバム『若者たち』(1995年)に出会ったことが、日本の音楽を掘り下げるようになった大きなきっかけでした。
―サニーデイ・サービスの曽我部恵一さんは長く下北沢に住まれています。
僕にとっては“下北沢といったら曽我部恵一”なんですよね。出会いは渋谷のライブハウスで。ホフディランのデビューライブを観た帰りに、曽我部さんとすれ違ったので話しかけたんです。「ホフディラン、もう終わった?間に合わなかった!」とおっしゃっていました(笑)。
―サニーデイ・サービスの1stアルバムがリリースされた1995年には、やついさんもすでに上京されていますよね? 当時から下北沢にはよく通っていましたか?
上京した大学時代は八王子に住んでいたので、頻繁に遊びに来るようになったのは大学を卒業した1997年あたりからですね。
―その頃の下北沢での思い出について聞かせてください。
芸人仲間や、当時付き合っていた女性も下北沢に住んでいて、よく遊びに来ていました。仲の良いミュージシャンも増えてきて、春になると決まって緑道で花見をするんですよ。銀杏BOYZの峯田(和信)くん、フジファブリックの志村(正彦)くん、Youth Recordsの庄司(信也)くん、GOING UNDER GROUNDの素生(松本素生)くんとか、いろんなメンバーと出会いました。ナンバーガールやbloodthirsty butchersなど、ライブもよく観に行ってた記憶があります。
―すごいメンバーですね。
2000年にサニーデイ・サービスが一度解散するんですけど、そのあと曽我部さんが立ち上げたRose Recordsにも毎週通っていましたね。YouTubeはまだなかったか出てきた頃で、Rose Recordsを拠点にUSTREAMを使って番組をやっていたんです。
―エレキコミックのライブも2000年から下北沢で開催されてきましたが、お笑いの熱も高い街だったんですか。
その頃の下北沢はお笑いに特化した箱がなかったので、そういう意味ではお笑いど真ん中の街ではなかったと思います。テレビに出ている芸人に憧れて、テレビに出て茶の間に知られることを第一目標にする芸人は渋谷や新宿に集まっていたイメージが強いです。
そんな中で、下北沢には、音楽や演劇などいろんなカルチャーが好きな芸人が集まっていたように思います。同じ事務所のラーメンズの片桐(仁)も下北沢に住んでいたし。うちの相方(今立進)も下北沢でバイトしてましたから。
「無名だった頃の僕らが路上でチケットを売っても、誰かが買ってくれそうな気がする」
―その頃のお笑い活動を通じた下北沢でのエピソードがあれば教えてください。
いろいろありますよ。例えば、当時はラーメンズもエレキコミックもまだ無名だったので、自分たちで路上に出て500円のチケットを売っていたんです。そこで興味を持って立ち止まってくれたのが、安藤和津さんと、まだ幼かった安藤サクラさんと、安藤桃子さん親子だった話とか。
実際に僕らのライブを観てくれて、そのあと自宅に招いてもらいました。その場にはお父さんの奥田瑛二さんもいて、ほかにもテレビで観ていた有名な方々が。それが初めて体験した芸能界らしい芸能界みたいな。あれからみなさんとは直接お会いしていていないので、覚えてくれてるかなあ(笑)。ミュージシャンや芸人、そして芸能界の大物まで、下北っていろんな人に出会える場所だったなあと、思いますね。
―そんなやついさんの目に、今の下北沢はどう映っていますか?
3年前にミカン下北のオープニングにも関わらせてもらいましたけど、‟再開発”って感じ。車で来ると踏切を待たなくていいし(笑)、快適になりましたよね。
―駅前も広々としていて、アクセスしやすくなりました。
そのおかげで「下北っていいな」と思ったことがありましたね。コロナ禍前まで新宿のLOFTで定期的にクラブスタイルのイベントをやっていたんです。それこそ芸人にもDJしてもらったり、曽我部さんにも歌ってもらったり。そして集まってくれるお客さん同士も仲良くなって、コミュニティが生まれる。それがクラブイベントの醍醐味だと思うんですけど、コロナ禍で休止せざるを得なくなったんですよね。イベントって1回止まっちゃうと、復活は難しい。
だけど、この間、場所を新宿から下北沢のADRIFT に移して、時間帯も昼間にして復活させたらうまくいったんです。当時のお客さんもみんな来てくれて、子連れで来る人たちもいて。同窓会みたいな感じでやってよかったと思ったと同時に、下北沢って今はそういう街なんだなとも思いました。家族で来れる安心感がある。
―わかります。
下北沢って、そこまで雑多な都会じゃないし、かつてのアングラなイメージはあまりなくて、ファミリー層も遊びやすくなりましたよね。音楽やお笑いのあるそういう繁華街の存在って大きいなと。かつては新宿の深夜にやっていたイベントを、時を経てこうして復活させることができたことはとても嬉しかったし、これからも続けていきたいなって思いました。
それでいて、下北沢には昔の空気のようなものも残っている。当時と同じように、無名だった頃の僕らが路上でチケットを売っても、誰かが買ってくれそうな気がするんです。駅を降りると景色はすっかり変わったけど、同時に「変わってないな」とも感じます。街も人も、温かいんですよね。
「アマチュア歴30年、ずっとアマチュアでい続けていることのプロ、みたいな(笑)」
―お笑い芸人であり、DJであり、イベントオーガナイザーとさまざまな分野で活躍するやついさんですが、自認としては何者ですか?
そうですね、やはり芸人だと思います。DJも全力でやってますけど、音楽だけで躍らせているわけじゃないというか……。
音楽を使ったおもしろいことをやっている、という感覚なんですよね。そういう意味では、イベントをやることも含めて、みんなを笑わせたい、楽しませたいという想いは芸人を志した最初の頃と同じなんです。だから僕は芸人なんだと思います。
でも、ちょっと違った見方もあって。DJをやってたら「芸人のくせに」、芸人に戻ったら「ほかにもいろいろやってるんでしょ?」、俳優やったら「で、どこの人?」みたいな感じで、ほかのタグが付いて回るというか、昔は直接言われたこともあったし、今もそう思っている人もいるでしょうし。そう考えると自認も少し変わってくるというか。
―そういった声を気にしていた時期もありましたか?
いえ、過去も今も、それでネガティブになったことはまったくなくて。
―どの道においても真剣だという自信からですか?
ちょっと違って、もちろんどの活動も真剣にやってますけど、実際にせんぶ“じゃない人”、ぜんぶアマチュアなんじゃないか、プロだと思ってやっていたけど、どうやらアマチュアらしいぞと。アマチュア歴30年、ずっとアマチュアでい続けていることのプロ、みたいな(笑)。
―例えば『やついフェス』ではバンドカルチャーとアイドルカルチャー、お笑いなどを越境させている。これって、それぞれの現場を肌で感じてきたやついさんだからできる、プロフェッショナルなイベントづくりじゃないですか。
『やついフェス』も、もともとは僕が下北沢で花見をしていた当時の仲間と、いとうせいこうさんとの出会いがきっかけになった浅草界隈でのつながりありき、ようは僕の東京の西側と東側、それぞれのコミュニティを合体させて、間を取って渋谷でやっているイベントなんですよ。
もうあの頃のようには遊べないけど、こうして年に一度みんなで集まれる。そこには昔からの仲間や先輩の後押しがあって、若いアーティスや芸人も参加してくれて、お客さん同士の新たなつながりも生まれてアップデートされていく。どの活動もベクトルは同じで、ファミリーでありコミュニティなんですよね。だからビジネスとしてのイベンターの王道ではないというか。
―今回のインタビューを通じて、その感覚がやついさんらしさなのだと、感じることができました。
‟プロの仕事”という意識よりもそういう感覚を大切に、これからもいろんなことをやり続けていきたいと思っています。